2011年はあんまり自信がないけど続けるしかないのだろう・・・

 正直、新年を迎えたが あんまり すっきりしない。

 この時期になっても 4月以降の身の振り方がまだ決まらず、結局 2010年はいったい何をやってきたのかと思う。
いろんな仕事をして、いろんなところで 報告もしたし、もうすぐ 大きな研究成果も世に出るのだが、

 これらのことが何も職業を獲得することに結びついていない。

 去年の反省をすると 結局のところ、 目先の仕事に追われて、研究や 就職活動への時間があまり とれなかった。

しかも、周囲との人間関係で相当つまづいていると思う。別に 誰かと仲が悪いということではないのだけど、自分自身、まだ いろんな 方々と 信頼関係を構築するまでに至っていないということであろうか。

 まあ、しゃあない。できなかったことを 反省しつつ やり方を 変えながら 試行錯誤するしかない。

 とりあえず、2011年は 研究と、就活に直結することを最優先させて動いて行こうと思う。

ということで、いきなり 暗いですが、今年もよろしくお願いします。

研究会のあとでふと思う。

http://www.arsvi.com/o/s28.htm#02

の研究会がおわる。今回はどうもわたしの専門ではない部分があったので、どの程度議論についていけたのだが、自分でも「・・・」である。

 テーマの中身にはともかく、私のやっていることの基本を確認できた。

 要は、権力の作用、その中での拘束状態におかれた主体とは?、さらには、そのなかで「個」はいかにして生き方をみいだしていくかである。

少々我田引水的に自分に議論をひきつけているのだが、

やはり人類学と社会学は、権力、主体、個、集団、社会関係等々の範疇、作用、暴走と露骨に向き合ってなんぼだと思った。

 いま大学業界は嵐である。おそらく、最大の「難事」であろう。
しかし、難事のなかで露骨に表出される人間の汚さや葛藤と向き合うのもまた人類学・社会学者の仕事なのである。

 学者は自分の業績を上げることを考えながら、自分よりも「できる」人間を妬みながら、この難事を分析する必要があると、ふと思う。

でも、妬むのはかっこう悪いからやめてたほうがいいよ。

自分も含めていろんな人に言いたいw。

次の仕事

次の仕事がある。書評である。某学会誌への書評論文である。

苦手な史料系の歴史研究である。フィリピンつながりということで書くことに、まあ苦手なりにがんばりたい。

今月はまだまだありそうである。2年間落ち続けている某ポスドクにも応募せなあかんようである。

 なので、前向きにいきたいところである。

久々にやります!

 最近は、事典の原稿やらなんやらで、少々書き仕事をして、それをなんとかこなしている状況が続いている。

 去年のポジションがメールで指令が来て、それをネットで処理する仕事であった。正直こういう仕事のやり方はぼくには向いていない。

 もちろん、ぼくもわりとモバイル人間だから、端末は頻繁に活用するのだけど、メールで効率が悪いこともあるし、ちょっとしたことなら直接電話で頼んだ方がやっぱインパクトが強いし、互いにいっらとすることもなくなる。

  それに、オフラインや、オンでもかぎりなくオフに近い電話等は相手のテンション、その人がいま調子が良いかどうかというのもよくわかる。

 人間にはサイクルや調子、テンションがある。それを察するのも重要である。

 やっぱり内にこもらんことである。自分の殻に閉じこもったり、いつも同じ相手だけと、同じ部屋であっていては、周囲、外部の流れはわからん。

そういうのはぼくの趣味じゃあないね。
コミュニケーションを馬鹿にするやつはほっておいたらいい。

近況・・・

とりあえず帰国しました。

今回はいつも使用しているフィリピン航空がパイロットの大量自主退職で、飛ばない危険性があったので、格安のセブパシを使うことに。

 座席が若干狭いことと、機内食が出ないこと、チェックインの風景がフィリピンの国内線ぽいことなんかいろいろあったけど。わりとアットホームで快適だった。帰りは最後までフィリピン気分を満喫できた。

行きにはなかったゲームもあったし。よかったよかった[m:50]

今回もなんにも当たらなかったけど[m:78]

まあマスコットキャラクターはなんだかかわいいしいいでしょう[m:66]

 さて、今回の滞在は取材をして、空き時間は博士論文の修正をしていた。よやくきっかけをつかんだ感じである。また、偶然に同じ時期に滞在していた研究者仲間と夕食をとったり、フィリピン人留学生の兄弟から預かり物を託されたりと、移動距離はあまりなかったわりに、いろいろ考える滞在だった。

 「人類学者はやたらと人類学にアイデンティティーを感じている。」

博士論文の副査だったN先生にいわれた。だけど、やはり、人類学として自分ができることを考える。また先生には笑われるだろう[m:67]

 ある同世代のぼくよりも先を走っている人との食事の会話で思ったこと。

 人類学、いや学問は、問いをみつける、たてることをすることが仕事である。もちろん問いを解く・説く作業も大事であるが・・・。

 だか、するべきことはまずは、問いを立てる、そして、もっと細かく言うと問いを自身から見たり、聞いたり、感じたりしたものから、他人の会話からみるけることであると思った。

 佐藤郁哉氏や、古くは川喜田二郎氏も共通のことを言っている様な気がするのだが、まずはそれを書きとめて解釈を開始すること。

この「解釈」にはすでに調査者の主観そして、人生が含まれている。
言語化したあとに、それをもう一度考えてみる。

 問いの位置づけそのものを考えてみることも大切である。

 いわゆる調査対象と想定する人々にとって。

 そして、学者自身にとって。

 ということである。

 問題処理能力ばかり早くしても意味がない。

 そこから論文なり、書きものなりに仕上げていく。

 そのためには 日常の目の前のものひとつひとつに敏感になる必要がある。 「雑用」と思うことに対してもそうである。無駄をつくらない繊細さが必要である。


 さらに、日常の目の前のことだけではなく、問いを立てる営みに重要な事は、書物を研究では直接関係のないものもを含めて読む、ながめることが大事である。

これは次元が違う営みにみえて、じつは少なくとも人類学者にはともめられることではないかと思う。学者は後者の文献的な営みばかりにとらわれる。しかし、なんだかそれだけではないような気がする。

 気がするだけで、根拠はなんにもないのだけど。

 当たり前のことだけど、センス オブ ワンダーの大切さをしった旅であった。

 もちろん 人類学以外の人文社会科学にも共通の課題なのだろうけど、ぼくはやっぱ人類学を選んでよかった。

 まあ問題処理能力や、大学の一般入試で求められるような瞬発力も必要なんだけどね。

とりあえず、頭の中が整理された。


マラテのあるカフェ 偶然に生演奏をやっていたv

文系院生恋愛・結婚―男子をみると・・・

続きものです。では、文系大学院生男子を見た場合の恋愛・結婚事情はどうだろうか?

すみません。ただごのブログ、ヘテロセクシャルの人を前提に書いていますので、それ以外の方々がどう思われるのか・・。

 端的に言って深刻である。

 社会構造上男性が世帯主になり、主な収入を稼ぐことが求められる日本社会(いや大多数の近代国民国家)においては、この義務を履行できないというのは、ほぼ社会から「逸脱」しているに等しい。そうなると、

院進学=親密圏もしくは家庭の再生産活動は無理

 という図式になってしまう。また、一部の女子院生がまだ望みとしてもっている社会的なステータスや収入がある男性との結婚という「上昇婚」のお相手になるというのは親が石油王などならともかく基本的には厳しい。

 その結果、同僚の女子院生からは、恋愛・結婚対象とはみなされず、院外部の女性からも当然、恋愛結婚対象とはみなされない。

 もちろんこの図式もかなり偏っている。そうなるとどうすべきか?(とは言っても、この議論自体恋愛・結婚しようというのを前提にしているような感じなのでやっぱり偏っているが)

要は、パートナーをみつける発想や必要性そのものも、「逸脱」すればいいのである(言うのは簡単だけど)。 院に入る時、お金やビジネスシーンでの努力では得られないものを、得るために何かを捨て、何かを選んだようにすればよいのであろう。

 そして、それを実現するためにはまず「逸脱」する覚悟を決めて院に入ってきた女性と係わろう!別に院生である必要はない。要は相手が「一般人」でもよい自身の「逸脱」ぶりを表現することである。

 そこから逆説的な発想がはじまる。たとえば、貧乏だから結婚するという発想でもいい。一人で住むより、二人で住む方が何かと安く上がるし、便利である(まあ、もちろん男女関係なんでそれだけでは・・だが。)

 女子の院生、もしかしたらけっこう稼いでいる女性なら、家事はしたくないし、誰かに押し付けたい。なので、結婚しにくい社会的属性の男子と結婚して、家での力関係をつよくする。なんてのもありである。なので、男子たち家事はできるように!

 「逸脱」には、結婚も恋愛も「逸脱」したものにすることで対応できるかもしれない。「一般的」というこだわり捨てること、そこから大きな一歩がはじまるかもである。

 大学院でLove life もトランスしよう!
ちょっとおちが単純だったかな・・・。