映像シンポの感想2 日常的創発について

 
 前回のブログの続き。映像シンポの翌日、カトリック教会を拠点とするフィリピン人コミュニティにいく。考えれば、もう関わって7、8年経つ、とはいうもののわりとええ加減な関わり方なので、ある時期は頻繁に行って、ある時期はいかないという事が断続的に続いている。

 その間にフィリピンでの留学、長期滞在も経験した。

 だというのに、節目節目では、やはりここの人たちに連絡を取る。ここが原点である。
  
 もちろん、コアメンバーの顔ぶれはかわらないのだが、最近、よく考える。このコミュニティーは、単に、「在日フィリピン人」のコミュニティーという枠を越えていると思う。もはや、新たな関係を創発するセンター、いや、中間アクター?、ミドルマン?のポジショニングを取り続けているように思えてならない。

 コアメンバーの人たちは歳を取らない。みんなけっこういっているはずなのに・・。いつまでも若い。

 このグループのポジショニングは「来るもの拒まず、去る者追わず、戻ってくる人も、まあOK」ということなので、いろんな人が集まりやすい。

 私もそのひとりである。ミサの後のミーティングも、後で考えてみると、ほんとにいろんな面々が集まっていた。例えば、フィリピンに留学していた友人の妻、確か、4年ぐらい前はフィリピンでソーシャルワーカーをしていた。いつのまにか、このコミュニティーのコアメンバーになっている。国際結婚した女性たちだけではなく、学生たちも多い。しかも、けっこう深く活動に関わっている。

 かと思うと、フィリピン政治について研究している友人や、私のような人もいる。また、国際結婚して長く住んでいる女性の夫側の親戚の子(フィリピン人とは関係ない)も来ていて、今度イベントに参加することになった。

 まあ、もちろん表面的な部分しかみていない私にはわからん部分もある。

 だけど、なんだろうこの吸引力は。それでいて、ミーティングはちゃんと会議になっていて、議題、質疑応答ができている。

 こういう組織は、いや集団はいったい何と定義すればよいのだろうやはり「集合的な中間アクター」かな???。個人ではないのでエージェントというのはピンとこない。ネットワークほど強固でない部分もある。まあ、何でもよいのだけど。

 いわゆる「ボランティア」に来る日本人学生たちも少なくない。彼らは、何か、中期的な企画があるとやってくる。グループ単位で来るから、そのうち数人は残ることもあるし、残らないこともある。

 以前、よくミサに来ていた人がいる。その人は、フィリピン人とも、フィリピンとも縁がない。カトリックであるその人は、あることでフィリピン人のある方に教会の前で親切にされてから、フィリピン人が多い英語ミサの方を礼拝するようになったらしい。

 ACTIVISMの文脈で考えてみると、おそらく、当事者はACTIVISMなんてぜーんぜん考えていないと思う。だが、いろんな人を引きつけてしまう力は難しい言い方をするととてつもない「創発」なのではないだろうか。確かに持続力はないかもしれない。しかし、個々がこの経験をもちかえり、考え、新たな日常的な実践を展開できる可能性だってあるだろう。

 ここのコミュニティーの人々が展開しているような創発的な関係性を模倣するような日常の実践を展開することから何かが生まれるかもしれない。

 そう思った週末であった。

 これは私の感想と経験、観察レベルなので、何とも言えないが、残念ながら、運動、市民活動を強調するひとたちは、はじめから自分の同業者や、既存の関係の殻に閉じこもり、新たな関係から生まれる、日常的な実践を展開する機会を逃しているような気がする。

 鶴見良行さんがいっていた「歩く」ということを言葉では多用していても、実際にやってみようとする人は意外と少ない。「やってみよう」とすることが大事なのだと思う。

 とりあえず、モノマネと、理論化からやろうとしている・・。