最近

 ある後輩と食事に行く。フィリピン、人類学に興味があるということで、読書会等々するつもり。

読書会といえば、それは、その参加する人の個性というか、人間性が結構出る。

 レジュメが異常に丁寧な人、テキトーにいろんなことを省略するけど、核心だけは外さない人、御勉強はよくできるはずなのに、絶対、核心や著者の意図をはずし、理解できない、なんかずれている奴(まあ、こういう奴はぼくは好きなんだけど・・)

 コメントも様々である。やたらと難しい言葉をならべているけど大したことを言っていない、ずれている奴(正直このては苦手、いつも「出直して来い、ここに来るんじゃなくて、錦市場を歩いて、人と交流して来い!」と思っているがそんなこというと立ち入り禁止なる危険性があるので絶対言わないし、言っているほうも真剣にやっているので、「真剣さ」は高く買いたいと思っているのであえて言わない)、淡々と話すが、よく中身を理解して、批評をするにしても的確で、学者じゃない人でもわかる言語ではなせる人、なんだかストレスがたまっていて言葉に「とげ」がある人、眠い人、ひたすら人の議論やエキサイトしている姿をだまって聞いていてよく観察している人。

 ぼくはどちらかというと「眠い人」か「観察している人」である。本当はいろいろとコメントしたいんだけど、コメントするとだいたいそこにいる「難しい言葉」系に一蹴される。「あんたは何言っているかわかんない。」と。

 でも、この発言はありがたいのである。まあ、言われた時はむっとするが・・。だいたいこういう批判をされた発想は、あとあと考えると「使える」ことが多い。

私としてはある種の「リトマス試験紙」みたいなものである。

 「場」としてみたときに、いろんな人間模様がみえてくるような気がする、限定された時間の場、という感じである。

 あとなんだか儀礼の場になっているような気もする。あるなんとなくうっくつしている人がその場ではやたらとアグレシップの人を攻撃する。そこでその君はストレスを解消するかのように満足して帰る。また、同じことを繰り返す。まあ、参加している人間からすると、うっとうしくてたまらんが、彼にとっては生きていく糧となる場なのだから、悪くも言えない。

 また、ある種の上下関係を堅持する、下の者から上の者に、上の者から下の者からの突き上げにより、関係を固定する場になっている場合もある。先輩は後輩に「そんなこともしらないのか。もっと勉強しろ!」というメッセージを直接的に発信できる場であるし、逆に理論派の後輩がそうではない先輩に下剋上を仕掛ける、もしくは、先輩を完全に立てながらも、じつはコントロールしている可能性もある。
 
 そう考えると、人間模様がみえる。

 大学院の読書会というのは読書や知識を増やすこともあるが、「儀礼」として考えるのもありだと思います。はい。


 さあ次は何を読もうか。セルトー、ギアーツ、それとも、ゴフマン なんでもきんしゃい!