人類学者って「人間」のあり方そのものを語る?

 このまえの人類学の読書会で戸井田道三のテクストを取り上げ、議論していた。いろいろ年度末忙しく活字を見る気になれたかった私は、「読んでません。申し訳ありません」ということを公言して、後輩のみなさんの議論を聞いていた。

 よく考えたら、最近の人類学ってなんだか、人間とか、社会とか、身体とかを根本的な問題そのものを論文という形ではなく、評論や批評に近い形で、問うものって少ないなあっと痛感した。
 論文っていうのは、かなり限定された地域なり、テーマなり、問題設定なりを、特化している。なので、あまり人間社会の営みの根源的な問題設定はできない。

 考えれば、山口昌男氏以来でていないような気がする。もしかしたら、これがいまの人類学の問題ではないだろうかと思った。

 業績競争して、「商業」化される過程で忘れ去られた「人類学」本来の機能を取り戻す必要性があるんだろうなって漠然と思った。

 やっぱ論文の訓練するのも大事だけど、社会そのものを個性的な言い回しで語るちうのもいるなあっとなんとなーく思った。