「アイデンティティ」という死語・・・

いやあ、数年前、上野千鶴子先生が『脱アイデンティティ』という本を出して以降、もうこの言葉、死語になっていたと思っていたら、意外といまだに乱用されている。

 あいかわらず、定義は、もとの意味は何だったのかもわからず乱用されている。

 とくに自称「移民研究」者たちは、エスニックアイデンティティや、民族的アイデンティティなどと、ほぼ意味不明の形容詞をこの語の手前につけて、さらに、意味がわからないように改変して乱用している。


いや、失礼ながら、これは悪用に近い。

 移民研究者が使用している「アイデンティティ」は明らかにエリクソンの「アイデンティティ」である。
江藤淳はこれを日本語で「自我同一性」か「自己同一性」どちらかに翻訳したというのは、学者の世界では、いまさら説明するべきことでもない自明のことであるし、最近ではこの説は、学者ではない方でもよくご存じの方が多いものである。

 エリクソンアイデンティティ論を思い出してみると、アメリカのインディアンのこどもが居住地から引き離されて、アメリカのドミナント社会(WASPの社会かな?)への同化を施設で強いられ、精神的な不安定に陥る状況を懸念し、そこ子の帰属意識は出自の集団にあり、そこで文化化、社会化されるべきことを「アイデンティティ」とよんだのであったと思う。まちがっていたらごめんなさい。

 さいきん、いくつかの研究会に参加していたり、報告者が引用している論文などをみると、やはり、この語を、ある種の個人と集団の、個人からの無意識な帰属意識と考えるのには少々無理にあることがわかる。

 一部の移民研究者が、移民が状況によって、自己の帰属意識を変えることを状況的アイデンティティなどと定義している。しかし、そもそも、状況的に帰属意識を変える段階で、アイデンティティをという語を使うことはもはや理論的に破たんしていると思うのだが・・・。

 エリクソンの説では、アイデンティティは可変できないのだから、可変できるものはアイデンティティではないのではないかというのが私の考え方である。

 まあ、アイデンティティそのものも意味がわかってきているから、別に使ってもええんじゃないの?という意見もよーくわかる。

 しかし、もっと良い言い方があるとおもう。それに、アイデンティティといってしまうとどうしても「静的な」意味がつきまとい、かえってわかりにくいのではないかと思う。


 もう少し、言語学的に、ある個人が自己を意識するときに、行う発話だけではないより幅広い象徴表象行為としてとらえ、その表象である部品をシンボルだととらえ、状況に応じて、また、その場にいる他からの表象交換行為の中で、派生して起こる、かなり一時的なインターアクションと捉える方が正しいではないだろうか。

 そうなると状況は、対話相手によって、状況的になるのは当たり前のことである。

 そう考えると、様々な場所で再生産されている「アイデンティティ」という語はじつは「アイデンティティ」ではなく、誤まって解釈された定義であることがわかるのではないだろうか。

 直近の『ソシオロジ』のどの論文か忘れたが、若者の引きこもりという行為を、アイデンティティクライシスという見方ではなく、ゴフマンのシンボリック・インターアクションからみると、引きこもりといわれる人々の大多数である、「すべての人間関係を断絶していない」状態、つまり、人間関係を限定して、取捨選択しているもとでの「引きこもり」に何らかの意味を見いだせるという説(だったと思います)は相当説得力がある。

 やっぱ、たまには理論をせな、新しいことを発見できないと思いました。

 また、気になったのは、見田先生のこの本もアイデンティティなのだが、構築主義的な発想でいうと、もし「アイデンティティ」というある個人が無意識のうちに何かに帰属意識を感じる、いや、感じなくてはならないという脅しが、大多数の人間を支配している社会状況なら、アイデンティティという発想そのものが人間をやりにくいものしており、そうなると、ますます別の概念が必要なのではないかと思う。

 やっぱぼくはアイデンティティはいりません。

まなざしの地獄

まなざしの地獄